在校生が長谷川法世さんのインタビューを行いました。



長谷川法世さんインタビュー風景


今回のインタビューは今年度の校誌「福高」の特集として企画・立案したもので、平成24年9月10日(月)に博多町家ふるさと館において行われました。
先行して福中・福高同窓会ホームページでも掲載いたします。



―――  「博多っ子純情」をお描きになったきっかけは何ですか。
長谷川  週刊誌の副編集長からの依頼を受けたことですね。断るつもりだったんですが、ふと「私にどんな作品かかせたいですか」って聞いてしまったんです。編集者の「故郷について描いて欲しい」というのを聞いて気が変わりました。とにかく偶然でしたよ。
 もともと自分に描ける漫画って言うのは「博多」の漫画だと思ってました。自分は漫画が好きで漫画家になったんですが、自分の世界があまりなかったんです。他の漫画家は取り柄があって、SFや野球などみんな専門分野があったのに、自分にはない。その時に「博多漫画」ならできるのになと思ったんです。冗談で言ってみたものだったんですが、その後すぐ描く事になりました。
 
―――  博多弁で描いた漫画の「ウケ」はどうだったんですか?
長谷川  実際に博多弁で書いてからのウケはよかったですよ。結局、物語が完結するまで描き続けたんですが、半年程後、描きすぎで肩を壊しました。腕が肩までしか上がらなくなって、ひどいときには顔も洗えなかったんですよ。でも、なんとか工夫して描いてましたね。
 
―――  「博多っ子純情」には福高がモデルだという〝石堂高校〟が出てきます。本校のどのようなところを参考にされましたか?
長谷川 長谷川法世さん-その1 …だらしないところです(笑)。元々福岡中学っていうのは、博多の商家の子弟を受け入れるためというような感じで出来たという経緯がありました。修猷館が藩校の流れで士族を受け入れる、こっちは博多の商人を受け入れるというような感じでしたね。
 私は博多二中(現博多中学校)出身でしたが、三十四人が福岡高校へ進学しました。博多の人間は少なく、自分の高校生時代には山笠の話なんてあまりなかったんですよ。箱崎や香椎の団地からの生徒も多くて、博多出身は少数でした。それはそれで面白いものでしたけどね。生徒がパチンコ屋に出入りしたり、麻雀屋で捕まったり…。そんなことが結構多いような時代でした。今じゃ考えられないと思います。今は上品といえば上品ですが、飼い慣らされているといえばそうなのかもしれませんね。
―――  主人公の郷六平はラグビー部に所属しています。先生はラグビーに何か思い入れがあるのでしょうか?
長谷川  いや、授業もサボってました(笑)。あんな固い地面でできるものかと思って見学してましたよ。特に自分は美術部だったから、手を怪我したら大変だとか言って(笑)。映画とか見たらわかると思うけど、向こうのグラウンドのラグビーなんて足のくるぶしまで芝生に埋まって走ってますよね。タックルはあんなところでするのが普通なのに、こんなところで出来るものかって。あるとき授業中、柔道部の同級生が後ろからタックルを受けて倒れて、気を失ったときも「ほれ見ろ。ああなろうが。」って思いましたね。
 芸術家気取りだったから、「美術以外の他の教科は要らん」なんて言ってました。だから、進級会議の時に美術部の先生がただひとり庇ってくれなかったら落第してたでしょうね。それを知ったのは二十年以上あとだったから、お礼を言おうにも亡くなってました。最後にお会いしたのは福高で同窓会総会をした時。「また後で話しましょう」と言ってろくに話さず別れましたが、それが最後になりましたね。
―――  当時の進学はどんな感じだったんですか?
長谷川  先生たちは今でも「九大に…」っていうのかもしれないけど、昔は九大オンリーでしたね。他の私大などを受けようとしたら自分でやらないといけない。慶應義塾大学を受けた同級生は福岡に帰ってきて「二次試験に『小論文』やらでるっちぇ。はじめて知った。」なんて言ってましたね。結局合格したんですけど。
 
―――  主人公の父親の職業は博多人形師ですが、何か博多人形師にした理由はあったのですか?
長谷川  国的に名の知れた職業といえば伝統工芸がいいですよね。最初に考えついたのは博多人形師と博多織師。でも、博多織というのは子供にはあまり縁のないものだったし、機を描くのも大変だったし、何よりイメージが具体的に湧いてこなかったんですよね。結局、後輩で親の人形師を継いだ奴がいたので職場を取材させてもらいました。それからようやく、博多人形師を描き始めたんです。それまではセリフでは「郷のオヤジは博多人形師やもんね」とか言うような話は出してたんだけど、実際には全然描いてなくてね。
 
―――  「博多っ子純情」を描かれる上で、モデルにした方はいらっしゃいますか?
長谷川 長谷川法世さん-その2 基本的にモデルは取りません。コンセプトは子供の成長過程っていうことだったんで、子供の成長は万国共通だということを意識して作品を作りました。小説にしろ何にしろ、特殊な状況っていうのはあるけれど、多くの人が共感できる部分があるから、みんなに読んでもらえる作品になると思うんです。博多弁で物語をすすめてもそれは同じです。「ああ、俺もこんなこと有ったな。…少し違うけど」って、そういうふうに思ってもらいたかったんです。
 
―――  「博多っ子純情」を描いてみて、どうでしたか?
長谷川  学校の場面で人をたくさん描くのは大変でした。学期が変わると席が変わったりするんですよね。五十人のクラスだったら、五十人の人間の顔を描き分けないといけない。同級生の顔の絵を切り貼りして四苦八苦しましたよ。ストーリー以外の別のところにも苦労がありました。
 漫画は中学二年から始めたんだけれど、〝純情〟っていうタイトルは先に考えたんですよ。「純情」な年頃っていつだろう? 中学の一年生はまだ子供だよね、でも三年生だと受験勉強が大変だよねって。二年が一番遊んでて、自立心があって、大人だと思ってるけど、まだ子供でもある。悩むとしたら、二年生が悩む時期じゃないか、面白い時期じゃないかって思いました。
 自分の漫画に教えられたって言ったら変な感じですけど、「大人だって純情なんだ」っていうことを教えられました。みんな自分のわがままなところもあって、自分の目指すところもあって…。「高校生も大人も純情であることには変わりないんだ」って思いましたね。本当に、できれば五十人のクラス全員を描き分けてみたいと思います。
 
―――  長谷川法世さんにとって「博多」とは何ですか?
長谷川 長谷川法世さん-その3 趣味は何ですか、と聞かれれば「博多です」と答えています。実は四十年ほど関東に住んでいたんですよ。「博多っ子純情」を書いたおかげで関東人にならなくて済んだ、なれなかったから描いた。両方言えると思うんです(笑)。何気なく編集者の人が「故郷を描いてみないか」といったのが人生の転機だったんですね。
私は高校時代に博多から糟屋へ引っ越しました。高校は福高に通っていたんですが、山笠にも出られなくなりました。その辺でアイデンティティをどこに持っていったらいいかわからなくなったんですよね。確立できなくなったというか…。でも、色々あって結局みんなそうなのかなって思ったりしますね。
 「博多とは何ですか。」と聞かれたら一般的には「故郷」と答えています。少し洒落て「趣味」と言うときもありますけど、趣味とは他に言い様がないという意味も含んでいるんですよね。私は博多二代目。江戸っ子は三代目からというがそういうのは自分の慣れの問題だと思ったりもするんですよね。
 

今回のインタビューは朝ぼらけ第102号にも掲載されます。

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