朝ぼらけ第115号紙面では短縮版記事でしたので、寄稿文の元原稿をそのまま掲示します。


我ら高20回生―古希祝い同窓会報告
箱田清美(8組)

卒業50年と古希祝いを兼ねて、われら20回生(昭和43年卒)は、伊勢参りを計画しました。50年という、我らの歳月は何であったろうか?同窓会の報告とともに、『朝ぼらけ』の読者の方々に、生きるということへのエールを送る意味で、欄をいただきこの一文を草しました。
2018年11月6日に現地集合、7日に外宮・内宮の御垣内参拝、さらに御神楽奉納・祝詞奏上まで済ませて、現地解散。総勢39名。慌ただしい一泊二日の企画でしたが、10年振りの全国同窓会に、高校生時代にすぐにタイムスリップ。気分はもう修学旅行。同窓生とは言え、当時親交のあった人は多くはない。されど福高で同じ時を共有したという原点は、心のふるさとを確認させ、一瞬にしてわれらを青春に戻して、歳月を超えて会話を弾ませてくれる力があるのだから不思議という他ありません。友の顔は、50年という歳月を、それぞれの年輪を刻んでいます(有体に言えば、老けた)。50年前の、セピア色の集合写真を持参してくれた人もいましたが、現に目の前にいる人とどうも結びつかない。あの人は誰だったかと名を訊くのも失礼。必死に記憶を呼び戻して、青春の面影を、目の前にいる同窓生の顔の中に重ねたが、そういう小生をも、同窓生たちは同じ思いで見ていたことだろう。
「青春(Youth)」というサムエル・ウルマン(Samuel Ullman)の詩がある。「青春とは人生の一時期を言うのではなく、その人の心のあり方を指すのだ」と、彼は言う。同感とは言え、古希はもう若くはない。青春よ、再びの年代ではない。しかし、この時期に同窓生で集まる意味は、「至誠の念は胸に満つ」という精神を50年かけて味わって生きたことを、共に慈しみ、そのことへの感謝が未来を照らす力があるということを共感するためであるだろう。我らの世代は、団塊世代の最後、学生闘争のただ中に大学に放り込まれた感のある世代です。ゴチャゴチャの中での学生時代、バブルの中年時代。思いは人それぞれに色々ですが、自己の夢をやり遂げたという人はそう多くはないだろう。むしろ忸怩たる思いが、どの時代を生きた人にも残っているに違いない。しかし、どんな時代であれ、その時代をどのように誠実に生きたかを共に語り合えること、それが同窓生のありがたさだろうと思う。それが次の世代の福高精神を生きる人に、何よりの励ましとなると信じるからです。
しかし、「なぜ」この時期に、我らは伊勢を選んだのか?神宮の成り立ちは、大和朝廷以前から始まると歴史学者は言うが、政権を巡る人間の葛藤の中で、人智を超えた何ものかへの畏敬の念を、我らの先人は大切にしてきた印なのだろう。それが日本精神史を創りあげてきたのだろう。この思いが、なぜへの、一つの答えとなるのだろうか。伊勢は不思議な霊験に包まれています。「何事のおわしますかは知らねども・・」と詠った西行の感覚は、今でも生きています。神宮の太古の森からの霊風が、能力主義・個人主義・競争原理・スピードetc.に煽られて忙しく生きてきた我らに、「あゝ、お前は何をしてきたのだと…」、向こう側から問いかけてくるような気がした。しかしそれは同時に、我らへの豊穣の癒しともなると受け止め、伊勢を後にした。